2006年03月31日

最悪最低の幕引き

私は、大権力者の国会議員ってのは何よりも潔白さが必要であり、うわさ段階でも疑惑を追及される側の国会議員に「悪魔の証明」などというのは当てはまらないと思っている。したがって武部幹事長の対応も小泉さんの対応もほんとのところは国会議員失格だと思う。
反面、疑惑を追及する側は客観的な証拠を以て追及に当たらなければならないことは言うまでもない。が、疑惑を追及される側の「大権力者の国会議員ってのは何よりも潔白さが必要」という価値観が国民の間でも失われてしまったように思う。これは国民利益を損なう恐れがあると思うのだ。(疑惑の一つや二つないと大物議員って感じはしなんだが。笑)
その意味において、民主党側の「金で魂を売ったのは武部幹事長じゃないですか!!」などなど「断定口調」は大失敗だった。即ち「断定口調」でなければよかったのだと思うのだ。今回の一件によって確たる証拠もないのに、疑惑を追及してはならないという状況が生まれた。一見正しいようにも思うのだが、果たしてそうなのか、というのは疑問だ。

民主党のメール問題報告書を見て思ったことは、前原代表のこの上ない無能ぶりだった。材料のすべてが西澤氏からの情報だったことにも驚いた。これで永田議員の最初の国会での疑惑追及で武部氏の次男名前の漢字(た○し)を「つ○し」と読み間違えていたことにも納得がいった。「漢字に弱い」って永田は言ったけれども、そういう問題じゃないだろうと思ったものだ。永田議員は自分では何も調べていなかった。

民主党前原が引責辞任することになった。
辞任は責任ある立場としても当然であり、世論対策の面からも当然だ。
政権交代を目指すなら、第一義的には世論対策が重視されるべきだ。政策なんて二の次でいいのだ。あるいは選挙に勝つための政策が必要だ。選挙に勝つための政策というのは難しくて、飴ばかりでも今の時代ではダメなのだ。だから政策選定は難しいと思う。たとえば来年の参院選では「参院改革」が国民受けして、メディアも乗っかってくれ、政治家自らが身を切るという視点からもお得なんだと思う。もちろん参議院を改革することは国益にも担う。あるいは増税論議への国民理解に対しても一定の効果が得られるものだろう。
政策はともかく、政権党の代表者ともなれば、政局運営能力も必要だ。
世論ということを考えれば、前原辞任、永田辞職は既定路線だった。前原に決断力があれば、あるいは早期の収集を図れ世論も潔さを認めピンチがチャンスになるかもしれない局面だった。私は心から前原を憎む。「世論もびっくりするほどの潔さ」が何より必要だったのだ。それは民主党の利益であり、国民の利益である。
一人の決断力ないおっさんによって、二大政党の一角が、こうして終わってしまったことは、国民の不利益以外の何者でもない。
世論へ向けての政策選定という難しい事柄ではなく、政局という覚悟さえあればなんとでもなることで民主党の支持を伸ばすことができたかもしれない、民主党にいい意味での注目集められただろう好機だった。

国会会期中というのが辞任をためらわした要因かもしれないが、前原が早期にやめていれば、今頃国会は与党追及国会になっていた。
でも、一度続投を決めたんだから、「通常国会終了後に代表戦を行って、自らは代表戦には不出馬」ってところが正しい落としどころだった。
もうほんと残念だ。前原代表はとても誠実そうで、岡田前代表を省みて党内の政策をまとめていこうという姿勢が見えていたから頼もしかった。前原さんは実務者であり、政治家の器ではなかったということなのだろう。「新参議院へようこそ」って感じだ。
政治家ともなれば、総理候補ともなれば、世論の動きに機敏に反応し、あるいは世論を操作するくらいの気概を持たねばならない。
永田にしても党員資格停止という処分を決めたなら、それを通さなければならない。二転三転するのはもっとも見苦しく、著しく信用を失う。衆院選の敗北の民主党側の理由はこの二転三転だった。
もっとも衆院選を考えれば、党員資格停止処分なんてのは、イコール一議席失うということだ。絶対民主党政権とる気ないよね。
前原が最初から辞任決めてたなら、自民党総裁選の話題を民主党代表戦へとかっさらう「ここしかない」という契機だった。
国会は与党が牛耳っているんだから、場外で戦うのが選挙対策というものだろう。代表戦の流れで、民主党国会質問にも注目が集まる、そういう流れが選挙対策だった。
これは結果論ではなく、国民の大多数が先見の明をもって、民主党を批判していたのに、民主党が無視しちゃった。

びっくりしたのは、情報提供者の許可も得ず実名公表しちゃうって民主党の体質だ。実名公表の理由は「騙された」「情報源との間に、有効な信頼関係はない」だって。馬鹿じゃないの。絶対情報提供は、共産党にした方がいい。

さて、新代表だが、菅さんでは選挙勝てない。菅さんごときが論客らしいが、竹中さんにコテンパンにやられてたじゃないか。どれだけ人材不足なんだってことになる。はっきり言って見飽きた。これはただの感情だが、この感情が選挙を左右するのだ。
そうなると小沢さんだ。が、小沢アレルギーなるものもあるらしいし、今までの党への協力の不誠実さも、他の人は知らないが、私は個人的には許せない。しかも、菅さん同様人材不足を露呈することに他ならない。しかも政策は好きじゃないので、どうか新幹事長になってもらって影の実力を発揮してほしい。今度こそちゃんと若い代表を支えなさい。
若い代表と言えば、馬渕さんとか長島さんとか原口さんとか枝野さんとかになるのかな。枝野さんの討論は下品なので、あんまり好きじゃない。
長島さんか、原口さんあたりが代表候補だろう。でも、二人ともなさけないことに比例復活だな。
外交が総裁選の焦点でもあるし、内政は誰がやってもそんなに変わるところでもないから、個人的には長島さんだろう思う。でもなあ、当選2回だ。人材不足だ。
それにしても民主党はタレントがいない。テレビに出る若手ばかりが目立って、ベテランと言えば、菅・小沢・鳩山というのしか浮かばない。かといって、飛びぬけた若手もいない。

もう本当腹立つ。偽メールごときで党がガタガタの民主党、方や一億円もの闇献金やその他諸々の疑惑があるのに、平然としている自民党。ほんと笑っちゃうしかない。
政治のことを考えるのが馬鹿馬鹿しくなっちゃた。民主党はこの際、解体しちゃえばいい。政界ガラガラポンやってくれ。「解党的出直し」も何回もやっちゃうと、ほんとうに解党しろよって思っちゃうわさ。
二大政党、政権交代、絶対必要。民主党は不要。。それにしても心から前原を憎む。

残念なお知らせですが、今前原がやめようが永田がやめようが、どっちでも同じこと。タイミングを逃せば、効果なんてものは極端になくなる。
上海総領事館の電信官に対しての、中国のウィーン条約違反にしてもそうだ。
死者に鞭打つのもなんだが、どうせ遺書に詳細書くなら、上司に報告して、おとり捜査?みたいなことでもやった方が賢明だったし、目本の外交カードにもなったし、中国側からのそれ以上の不当な接触もなかった。でも親より先に自ら死ぬというのは外交官じゃなくても許されないだろう。二重三重の意味で国益を損なわせた者は、たとえ死者であろうと関係なく批判する。半端な心積もりで浮気なんてするからだ。条約違反は公の場では批判されるだろうが、ここは私的な場なので、女でも何でも使って情報を得たいと思い実行するのは当たり前だと思う。だからここで非難されるのは、中国ではなく日本なのである。
彼が死のうが死ぬまいが、外務省の対応が機を逸したものでなければ、国連の場に持ち込めただろう。残念。

でも遺書は読売のスクープらしいけど、どっからそんな情報得られたのか、こんなもの普通漏れないんじゃ…、民主党と違って情報源は秘匿されるのだろうな。






posted by 総理大人 at 19:13| Comment(4) | TrackBack(6) | 最近の諸問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月30日

小学校英語、必修化を提言 中教審、高学年で週1時間

小学校段階の英語教育について検討してきた中教審外国語専門部会は27日、全国一律に小学校で英語を実施する「必修化」を提言する審議経過をまとめた。今後、親部会の教育課程部会で授業時間数などを審議するが、導入への異論はほとんどなく、正式に必修化が認められる見通し。
 成績をつける教科とはせず、5、6年生は週1時間程度、共通の教育内容を設定することを提言。コミュニケーション能力の育成を重視するとした。
 中教審の最終決定を受け、文科省は2006年度にも改定する小学校の学習指導要領に必修化を盛り込む。
(共同通信) - 3月27日17時15分更新


中途半端なニュースが入ってきた。
教育は非常に興味のある分野なので、取り上げて批判に晒されてみようと思う。

これはおそらく、中学校の英語への入門・布石として意識したと思う。ALTなどを活かし、コミュニケーション能力を養成しようという狙いなのだろう。
断言する、週一回の授業でコミュニケーション能力が養成できるわけがない。小学校高学年といえば、目本語にどっぷりと10数年浸かってきた年代だ。いろんな不都合はあるにしても、5文型から教えるのが妥当な線だ。(今、中学では5文型教えないらしい。これやりだすと、前から順番に英単語の目本語訳を当てはめて、結果意味の通らない邦訳ができあがるっていう奴になる。文部科学省は大失態をやっているわけだ。)
他言語を小さいときから学習するという利点はたくさんあるだろう。他言語への意識的な壁を取り払う作用があろうし、話す聞くということについてはそりゃもちろん幼少期からの教育は有利だろう。けれども、小学校高学年ではもうそれを期待できない。
幼少期目本にいれば、目本語を話していれば何も問題はない。普段話す環境にないのに、週一回だけやるなんて何の意味もない。
また、小学生も週一回の授業ということを知れば、その授業は重要だと思わない。音楽の授業を重要だと思っていた人がいないのと同じことだと思うのだ。まして、成績をつけないなんて学校は遊びに行く場所ではないのだ。それなら国語をやってなさいってなもんだ。
また発音ということを考えれば、幼少期に比べれば難しいとはいうものの、大人になっても鍛えられる。しかし、所詮言語なのであって「伝わればいい」のであって、そもそも上手な発音なんて必要ではない、という立場の私だ。
まして、国語・算数・理科の授業時間を増やそうってことになったばかりなのに、英語なんてやってる暇なし。

英語なんて、中学高校とちゃんとやれば、読めるようになる。今読めないのは、中学高校でやってなかったということであり、それを小学校からやり始めたから解決するようなもんではない。話す・聞くについては、その必要に迫られた時にしか、結局養えない力である。必要に迫られたときにやれば、効率も上がるってもの。

そんなことよりも、常用漢字くらい全部小学校で教えなさい。だいたい混ぜ書きなんて意味ない教え方はやめてくれ。「りょう理」読めたって、街のどこに「りょう理」って書いてあるんだ。「料理」を「りょうり」って読めて認識できることに価値がある。結果的にそれが学習のスピードアップ、効率化にもつながるのじゃないのか。

ちなみに、教育基本法は憲法よりも抽象的で、というか憲法条文をなぞっているだけで、それはそれで必要な法律であることには間違いないのかなあと思うけれど、教育基本法に「愛国心」が明記されても、それがどうしたの?って感じもする今日この頃。
名門家のお嬢様に社長である父親が「あの人がお前の夫だ、愛しなさい」って言われてもお嬢様は愛さないんじゃないかってのと同じで、強制されても困るって結構醒めた目で見てることは非国民か。

私は、そもそも、教員が公務員である必要がないと思っていて、もし人間性が重要だというなら、教員免許試験のときに厳しく審査をして更に最近言われるように免許を更新制にするのも一案。株式会社の学校がいいかはともかく教育に競争は不可欠だと。受験ってのがそもそも競争なのに。

ついでに言えば、高校というのはもっと自由化してもいい。高校教科書検定は不要だ。
道徳教育という視点では、義務教育では社会規範や道徳などを教える。高校では、その実践段階というような区分けもいい。
高校は勉強するところなのだ、という完全なる位置づけ。実際進学校は予備校のようなものになっているだろう。そんな教育を保護者も望んでいる。

ちょっと思ってること、箇条書きメモ
授業時間確保
・学校にクーラー
・夏休み大幅短縮(春休み並みに)
・中学校は土曜日も終日授業
・小学校は親とどっかでかけなさい。友達と大いに遊びなさい。
・小学校・中学校の授業時間を増やす、下校時間を遅らせる。低学年も高学年並の授業時間。
競争原理
・教員の非公務員化
・複数高選択制、学区を広げることの、延長としてスクールバスを大活用すべき。あくまでその延長に安心安全のためという付加価値。
・高校教科書検定廃止

小泉さんは、教育の機会が平等でもないのに、格差拡大を容認する。重要なことは塾に行かなくても、十分な学力をつけられるという、「義務教育下での塾不要宣言」なのだ。機会平等ではない現時点で、小泉さんの教育論は終わっている。

ついでだから、書きとめてたのも公開。
・高校を卒業しても近現代史について議論できるような人はなかなかいない。
中国の留学生と目本近現代史について議論すると目本人の大学生は黙りこくったまま、中国人の方が曲がりなりにも目本の歴史を知っている、というのはよく聞く話。

・圧倒的に学習時間が足りない。
高校の先生の近現代史を学ぶあたりの時期の口癖は「時間やばいなー。」だろう。

・高校在学時あるいは卒業後に独学で現代史を勉強する、あるいは大学史学科で日本現代史を学ばない限り、いわゆる「自虐史観」「東京裁判史観」と言われるような歴史観しか持てない。
「目本は悪いことしたんだーめちゃめちゃ悪かったんだー」という感覚しか持てない。

・大学入試において近現代史の出題比重が高くなってきたとはいえ、まだまだ一部の大学の努力にしか過ぎない。
高校では「入試にあまり出ないから」という理由で近現代史がまだまだないがしろにされている。入試のポイントだけ教える先生、「ここは自習でもいけるから授業ではやらない。」という先生。

・中国でのデモのときに目本人がテレビインタビューなどを受けている人を見て思ったのだが、「なんにもわからない」のに「とりあえず」中国の国民は暴力的だ野蛮だ、と言う。マスコミの報道のみで左右される目本人。

・「東京裁判史観」と述べたが、高校で一番採択率が高いといわれる山川出版詳説日本史B最新版で東京裁判に関する教科書本文記述(p348)は、実質3行あるかないか。
しかも、実質内容は0だ。p349にはちょっとしたコラムが書かれていてパル判事などの名前はあるが、これまた実質、内容のない記述である。教科書から東京裁判がなんであったかを知ることは到底出来ない。主に自民党議員がテレビ等で発言される事後法による裁き、戦勝国による一方的なものであったということなどの「事実」は一切書かれていない。ABC級戦犯の違いが分かる国民はどれだけいるだろうか。「東京裁判史観」に縛られる国民が東京裁判のことがわかってない現状はこの教科書記述と大いに関係があるとも言える。

戦後60年、黒船来航から150年余り、目本がものすごい速度で駆け抜けた時代をもっと学習すべきだろう。
例えば日本史で言えば黒船以前の歴史の学習内容を大幅カットしてでも近現代史を学ばせる必要があるのではないか。国語の古典や社会の公民科ともしっかり連携をとればもっと効果的な歴史学習もできるだろう。
原始時代や古代中世のことを、今ほど深く学習し、それによって近現代史がなおざりにされるのは本末転倒だろう。
読みもしない、内容も知らない、書物の名前をただ覚えさせる歴史教育。何をしたのかも教えない人物の名前をただ覚えさせる歴史教育。
教育の無駄の省けば、もう少し内容の濃い学習ができるだろう。教科書が厚くなれば、あるいは薄くなればいいってもんじゃない。
東京大学の地理歴史入試。これは、ほんとに勉強できてないと解答できない。(私は解答できない。。)
慶応早稲田の歴史入試問題、詰め込んだものが勝つもの。これが私立トップ校で平然と行われている。

歴史の評価は時代が下すものだろう。でもそのとき、評価を下すのは学者だろうか、政治家だろうか。せめて国民一人一人が自国の歴史を評価できるくらいの判断材料を持つことは必要だろう。

途中から何言ってんだか自分でも分からないようになってきたが(笑)、英語教育も「やるならやる」ってことでお願いしたい。中途半端にやっても意味はないし、そもそも目本語でモノを考えられて、それを英語で発信できることこそが真の国際人なのだ。
恋愛は言葉では言い表せないものを運んでくれる。それは言い表せる言葉を知らないということであり、すなわち考えるための語彙がないということであり、恋愛の何とも言えぬあの感じは、国語学者でも追っついていないということだ。何が言いたいかっていうとよくわからないのだけれども、モノ考える時に一番必要なものは言葉だ。
中途半端に英語的価値観に染められちゃったら、国際人でも目本人でもなく英米人でもなく、何人かもわかんないような人間が出来上がってしまう。いや、週一のお遊び授業で、英語的価値観なんてものは生まれない。日常生活の中で英語的価値観に侵食されている、というのが正しい表現だろう。
本人が英語を話せないのは、中学高校の授業が悪いのである。いや、それさえ悪いものではない。中学高校のカリキュラムをちゃんとこなせば、ほとんどの英文なんて読める。
上手な発音も大事だが、言語なんて所詮相手に伝えられればいいのである。英語嫌いにさせない教育を考えるほうが先決なのだ。
英語教育を小学校から始めるくらいなら、近現代史を学ばせるべきだ。


一部3月30日24:00分くらいに追記訂正した。
posted by 総理大人 at 21:23| Comment(9) | TrackBack(3) | 最近の諸問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月19日

必読必勝

皆さーん読みましたか。待ちに待った報告書がいつの間にか、UPされてましたよ。

衆議院欧州各国国民投票制度調査議員団報告書
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/report2005.pdf/$File/report2005.pdf

私も途中までしか読んでませんし、いつ読み終わるかもわかりませんし、良質なものなのかも判断できませんが、おもしろいことはおもしろいので、賢明な(?)当ブログの読者なら、読んでみてくださーい♪♪

2006年03月18日

なんでもかんでも「さま」なの?

「皇太子さま」「皇后さま」

「愛子内親王殿下」ってのもお子ちゃまへの敬称としては硬すぎるから「愛子さま」でかまわないと思う。「雅子さま」でもかまわないし、「徳仁さま」でも「美智子さま」でもかまわない。まあ名前だから。
けれども「皇太子さま」「皇后さま」は気持ち悪くて、体がかゆい。昔からこういう報道だったのだろうか。。
やっぱり「皇太子殿下」であり、「皇后陛下」だろう。
でも、というか、さすがに「天皇さま」と言うマスコミには出会っていない。天皇だけは「天皇陛下」だ。なぜだ。
もう一つ、いつから「様」じゃなく「さま」になったのだろう。これも昔からなのだろうか。最近なんでもかんでもひらがなだなあ。「さま」も好きじゃない。

いや、さっきテレビで「こうたいしでんか」ってナレーションがあって、やっぱりこれだよなあと思ったのだ。逆に新鮮なナレーションだった。
それにしても皇太子の笑顔はなんか目本一だなあ。「絶対ええ人そう」なのだ。

それにして「最近の諸問題」という分類は正しかったのかな…

cf.典範23条
posted by 総理大人 at 23:26| Comment(5) | TrackBack(0) | 最近の諸問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月15日

憲法改正国民投票の運動

米軍再編を巡って岩国市の住民投票が行われた。市条例は投票率が50%に達しない場合は不成立と規定していたため、投票率が焦点で、移転案に反対する市民団体などは投票を呼びかける一方、賛成派は投票の棄権を訴えるという投票運動が行われた。

当然と言えば当然の運動である。
これを憲法改正国民投票に当てはめるとこうなる。「改正反対派は棄権を!」
したがって、最低投票率などというものを定めてはいけない。
もう少し考えてみよう。

最低投票率が60%だった。反対派は投票の無効化を狙い棄権運動を繰り広げる、一方賛成派は投票を呼びかけた。
投票の結果、最低投票率は60%を超え、改正賛成多数で、憲法は改正される運びとなった。
投票当日、もちろん反対派の中にも投票に行って反対票を投じるという真面目な、あるい意味バカな方も少なからずいた。
ななんと、もしその人達が投票に行かなければ、最低投票率の60%を下回っていたのだ。おしまいおしまい。

こんなことになると、ゴアVSブッシュどころの騒ぎではない大暴動が起きるだろう。暴動は起きなくても、国民投票の正当性が大きく危ぶまれる。
さらに、投票が逐条またユニットごとになるとすれば、というかそうなる流れだが、もちろん最低投票率もユニットごとに計算されるのだろう。あるいは丸々棄権した人だけを投票棄権ということにしても、「環境権には賛成だけれども国軍には反対」という人がわざわざ投票に行くのか?という疑問も湧く。
こうなってくると、投票の正当性を確保するための最低投票率の設定が皮肉にも逆の作用を働かせるのだ。
さらに、ここにマスコミによる予想投票が公表されてみなさい、もう国民投票の正当性なんてどこにもなくなるのだ。

したがって、最低限の代案として
・十分な周知期間、国民運動期間を設ける。
・2、3回の国政選挙を経ながら議論を形成していく。
・非常事態宣言時には国民投票はできないようにする。
・国政選挙と同日または近日に国民投票は実施しない。選挙とは十分な間隔を置くよう努力する。
など、が大事なのだ。

また、憲法改正での「賛成」「反対」「どうでもいい(棄権)」という三者の割合をはっきり数字で出すことはとても重要なことだと思う。その後の政権運営のために参考にしてほしい。またとない絶好の世論調査でもあるわけだ。

・投票率が○%に達しない場合は不成立
・予想投票公表の解禁
などは愚作であると考えるので反対する。

くわしくは、このカテゴリをご覧ください。

憲法改正私案、改正要綱(1)

私は、憲法は不磨の大典ではあってはならないと思う。一方、現実を憲法に合わせるのか、憲法を現実にあわせるのか、そういう議論がある。私は前者の立場だ。
そして私は、憲法にできるだけ細かいことを書き込みたい。ちゃんと国民に見えるところで戦ってほしい。そして国民が判断したい。

「改正のハードルの高さ」「規定の詳細さ」「変化への柔軟な対応」二つまでは両立できるが、三つはできないという猫研究員の言葉が記憶に残っている。

規定は細かくする代わりに、国会の発議要件を各院の過半数に変更する。
しかし、選挙のたびに、政権交代のたびに、憲法改正が発議されてちゃたまらない。それは憲法の権威を低める行為でもある。私は、数回の国政選挙を通じて憲法に関する議論が修練されていくのぞましいと思う。またそうでないと国民投票で否決されてしまうというのは海外の例でそうらしい。
そこで、憲法施行から5年間は国民投票を実施できないように規定したい。
「変化への柔軟な対応」はクリアできていないという反論はあろうが、5年後も見据えられない憲法なんて憲法じゃないのだ、と思う。最悪3年だろうか。笑
もう一つ、5年というのを定めることにより、国民的な大議論も自然発生しないだろうか。憲法を変えるにしても変えないにしても、議論があることは大いに歓迎すべきである。
アメリカでは大統領選の間の年を中間選挙などと言って、また大統領選の年は一年中徐々に徐々に盛り上がっていくような印象を受ける。大統領選の年を中心に回っている感じ。そんな盛り上がりが目本でもあればいいのではないだろうか。

これは岩国の件から派生した完全な思いつきなので、またなんか矛盾が隠れていそう。。
posted by 総理大人 at 21:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 最近の諸問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月11日

参議院のあり方を考える

「参議院改革と二院制のあり方、そして地方分権の概要の概要」で意見交換をしている中で、「政党化」と「選挙に勝つための政治」という二つのキーワードの重みを再確認してきた。

上の記事の私の考えは「知事選立候補時に知事候補者が参議院議員候補も提示して選挙を行い、国民が知事と参議院議員を同時に直接選挙する」という「チーム○県」構想だった。

まず先に「選挙に勝つための政治」という視点を。
「選挙に勝つための政治」イコール世論に合わせるという思考は、多かれ少なかれどこの議員も同じだろう。国民と向き合う政治は悪くないが、国民に尻尾を振る政治はまずい。現状の議員先生方は、まあ後者が多いかもしれない、私はよく知らない。いずれにしても参議院にかぎるならば「良識の府」「短期世論に流されない長期視点の国益志向」という存在意義から照らしても、やはりふさわしくないと思うのだ。参議院議員は代議士と名乗ってない。
「選挙に勝つための政治」という点をクリアするためには「再選はありません」という参議院にする必要があるように思う。
再選がないのだから、あんまり人気者になっても仕方ないのであるし、世論に尻尾を振る必要もない。ただ誠実に国益だけを求めて、再選のことなんか何も心配しないでコソコソちょこまかせず政治活動に励んでもらいたいものである。
そこで、知事とセットで国民に直接選ばれる参議院議員という私の案では、参議院議員の任期はもちろん知事の任期とイコールでなければならない。ということは4年であるから、もちろん再選などという話も出てくる。
だから不適だと思う。「長いものには巻かれたくないが、良いものにはグルグル巻かれたい。」を座右の銘にしようと3秒前に決めた私である。持論なんて、論破されるためにある。
ただ、「地方の声を直接国政に」という理念はこれからの地方自治の時代に個人的に確保しておきたいところである。そこで登場してもらうのは、都道府県議会の議員だ。
1:知事選立候補時に知事候補者が参議院議員候補も提示して選挙を行う。
2:知事推薦の参議院議員候補を都道府県議会議員が任命。
という手はずを踏むことで、知事の任期とは関係なく、参議院議員を長期やってもらうことができるだろう。
1は法律に定めなくて、どうか慣習でやってもらいたいと思う。
それは知事VS議会という場面のことを想定した場合、知事は議会と折り合いをつけなくてはならないことがもしかしたらあるかもしれないからだ。
また、2の段階で参議院選出の採決に限っては、議会の議員定数の何%の票を、いわば透明議員投票を知事が行使できるということを法律で規定したい。でも、その場合には1も明文化できるだろうか。
それで知事推薦候補が参議院議員になれなければ、そもそも議会が正常に働く状態とは思えないので、解散でも何でもしてくれればいい。
結局、現在の私案と結果は変わらないように制度を設計するのだが、結果は同じでも過程が全然違う。
これによって「再選なし」「ロングな任期」という二つをクリアできると思う。よって「選挙に勝つための政治」という弊害をほとんどクリアできるものと考えて、また「短期世論に流されない長期視点の国益志向」という状態に参議院を少しでも近づけることに役立つだろう。
ありふれた制度だけど、ちょっとややこしめのことをするのは、『地方の「リーダー知事」の声を直接国政に』反映するためである。

「政党化」についてはクリアするのは難しいが、「衆議院とは違う政党化」という言い訳もあるし個人的にはそれでいいとも思ったり、政党の議員ではあるかもしれないけれども政党化はしないかもしれないし、また無所属議員という名の政党推薦候補でも政党化と言うのだろうかとか、でも言葉遊びじゃないのでできればクリアしたい課題だ。ただ一つ言い訳したいのは今提示した参議院議員には党議拘束なんてのはまったくなじまないし、この案で党議拘束をかけることができるなんて主張する人はいないだろう、ということだろうか。半クリアか。
政党化ということの直接の弊害と、党議拘束の弊害はある程度分けて考えられるだろう。新参議院議員に党議拘束はない。再選もない。
ただ参議院こそ二大政党化してしまう可能性も大きいと思う。

もう一つ、ひそかにコメント欄で書いていたのだが、政策分野別比例区案の活用も考えている。拘束名簿式で再選なし、地方代表議員と合わせるため党議拘束もなし。今回地方代表議員の任期の問題がクリアできたことで、二つを組み合わせて、より一層多様性のある「修正の院」「良識の府」を目指せるのではないかと思う。なかなか合体は難しいような気もするが。。
最後に、こういったことだから市町村議会選で都道府県議会選をまかなっちゃおうという案は再考の必要が大いにあると思う。ただこれは個人的に基礎自治体を重視したいので、一休さんみたいにチンって何か妙案が浮かばないだろうかと思っている。

各国の制度なども、やるやると言いながらまだ勉強できていないので、それも取り入れられるものがあれば取り入れたい。

私は道州制には反対というほど反対ではないけれど、そもそも必要ないと思う。パイは都道府県でも十分なところが多いと思うし、必要なら県合併をやってもらえばいい。政策ごとに広域連合してもらってもいい。
ドイツやアメリカ並みにやるのなら、道州制もいいと思うが、それはそれで目本にはなじまないと思う。考えられないってだけかもしれないが。
そんなことよりも基礎自治体のパイを大きくすることに今以上に尽力してもらいたいし、アメなんかやらなくても自ら基礎自治体が動くぐらいでないと、地方自治なんて絵に描いた飴のまんまで、つまり地方の準備と覚悟が足りないように思う。


「長いものには巻かれたくないが、良いものにはグルグル巻かれたい。」ので、まだまだ案を変えると思います。まだまだ取り入れたい考え方も残っている。今回は選出方法に絞って書いたし。また気が向かれたらご意見いただきたい。

一粒さんには引き続きこっちで意見交換を続けさせていただきたいと思います。


posted by 総理大人 at 17:24| Comment(3) | TrackBack(0) | 参議院と二院制のあり方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月09日

「追求」と「追及」は違うのよ。

追及:責任などを問い質すこと。

追求:目標を追い求めること。

ついでに、

追究:不明な事を明らかにしようとすること。

って区別がある。

「見慣れて」ないと難しい区別だと思うが、これも人々が本を読む回数が減ったことの悪影響なのか。
責任は「追及」するものと決まっている。

民主党偽メール関連の記事を見ると、だいたい半数ぐらいが「追求」になっている。ただの変換間違いとは思えない確率だ。
国会議員のブログまで「追求」と書かれているものがある。アホの国会議員とアホの党幹部が起こしたことを、またまたアホの国会議員が意見を書いて、それを見たアホの国民が余計アホになっちゃうっていう負の連鎖を想像すると、せめて国会議員は正しく書けよ、と思う。
また、いわゆる「人気ブログ」にも平気で毎回「追求」って書いてあるものがある。

「責任を追求」を「見慣れちゃう」ことは大変危険なことだと思う。

「責任を追求する」を見る度に体がかゆくなるような思いがしてたので、耐え切れずエントリー化。間持たせ記事。


posted by 総理大人 at 00:54| Comment(3) | TrackBack(1) | 最近の諸問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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